| 
       Nikolaschka 
       
       
       
       黒を基調としたシックな内装。控えめにかけられた音楽。カウンター席につけば眼前にはずらりと酒瓶が並ぶ。古き良き雰囲気を醸し出すバーである。男がその店によく顔を出すようになったのは、マスターが彼をいたく気に入っているからだ。元々そんなつもりはなかったが成り行きで常連となり、行けば頼んだわけでもないのに決まった席が用意されている。入りやすい店構えではあった。また、彼には通いやすい立地だ。さして問題はない。 
       ほぼ何もかもが他によって決められた中で唯一、男が自分で決めたことは、トワイスアップのスコッチ。いつもそうだ。かといって、彼は決して酒の味がわかる男ではない。今よりも若かりし頃に見様見真似で手を出したものが、手元にあるこのスコッチだっただけの話である。香りを楽しむといった風情も持ち合わせてはいない。銘柄を変えないのも、他を知らないからだ。 
       オーセンティックバーのマスターは酒のことにうるさいとよく聞く。伝統を貫こうとする者は馬鹿正直な人間を好むのか、理由はどうあれマスターが彼に惹かれるゆえはそこにあった。 
       悪目立ちといえばそうかも知れない。上品ではあるが、黒い店内に彼女の真っ赤なドレスはあまりにも浮いて見えた。 
       店に入ってきたとき、すぐに男と目があった。彼女は赤いハイヒールを鳴らしながらゆっくりと彼に近づき、ルージュの唇を妖艶に歪ませ笑った。それに男は思わず会釈する。疑問と警戒の意は勿論であったが、元来の不器用な性質(たち)として、突然のことにうまく対応できないせいも大いにあった。 
       彼女は男の隣席に腰を下ろした。 
      「何を飲まれますか?」 
       マスターの声に彼女はそうねと呟く。鋭く強気な声をしている。彼女は注文を考える格好は見せたが、返答する意思はなさそうだった。マスターに振り向かず、じっと男を見つめている。その瞳に射すくめられて、彼も目をそらすことができなかった。 
      「こんな飲み方をご存じかしら?」 
       そう云って、ようやくマスターの問いに返事をした。そうして出てきたグラスの中には、男と同じスコッチがオン・ザ・ロックで。グラスに蓋をするように輪切りのレモンが敷かれ、その上に山のような砂糖が盛られていた。男にとっては既に新鮮すぎる光景であったが、そこから彼女のとった行動はさらに想像を絶していた。しなやかな指がおもむろにレモンをグラスに沈め、同じように砂糖も加える。そして、そのままぐるぐるとかき混ぜていった。大きな氷がからりからりと乱暴な音を立てているが、そんなことは気にも留めないで、細く長い指は、奇行ともいえる動作を続けた。 
       彼女が指を引き上げてからも、男には目の前で起こった出来事が理解できないでいた。驚くほどおかしな飲み方だ。真正の酒にこだわりを持つマスターがそれを黙って見ていたこともまた男を驚かせた。尤も、露骨に気難しい顔を見せてはいたが。 
      「いや……こんな飲み方は初めてだ」 
       できあがったらしいグラスをまじまじと見つめる。こんなものはウィスキーでなくとも見たことがない。 
      「そうでしょうね。私もそうだった」 
       女の瞳もグラスに向いていた。その琥珀をまるで睨みつけるように。 
      「昨日まで一緒にいた男が残していったものよ。どうにでもなれば良い、とでも云いたかったのかしらね」 
       悲哀を隠して皮肉を装えば饒舌になる。流暢に流れる声は鋭く強く、そして冷たく、やはり哀しい。 
       彼女は死をまとっている。男は不意にそんなことを思った。薄暗い店内に浮かび上がる赤。恍惚と見ていた。 
       やがて彼女はグラスを手にとり、中身を一気に飲み干した。美味いはずもないが、彼女は満足げに笑っている。おそらく、彼女の人生で一番美しい笑みだ。 
       
       
       
       彼女が店にいたのは、一瞬と呼べるほど短い時間であった。立ち去った後も、そのビジョンが男の脳裏によぎって、しかしなおも離れないでいる。残り香もまた彼女を――彼女の死を思わせた。もう会えることはない。そうやって考えるほど、彼女が一層恋しいものとなる。一目惚れをしたというよりは、一晩かけて彼女を愛したと云った方が正確な気がする。 
       
       その店に足を運ぶペースは変わらない。 
      「何をのまれますか?」 
       相手が何を頼むのか、わかっていてもマスターはいつも律儀に尋ねる。 
       男はいつもの席につくと、手中にあった頭だけの赤いバラをテーブルに置いた。柄にもない。我ながらそう思う。 
      「トワイスアップのスコッチを、二つ」 
       マスターが訝しんだ様子はなかったが、何かを云いたげにはしていた。それでも黙ってスコッチの入ったグラスを二つ、男の前に置く。オン・ザ・ロックとも思ったが、さすがにレモンと砂糖を混ぜて飲むほどの度胸も理由も、彼にはまだない。 
      「あなたは変えないと思っていた」 
       マスターが笑った。飲み方のことだろうか。信念のことだろうか。男は彼のこともまた、いたく気に入っていた。 
       片方のグラスにバラを浮かせ、隣の席に置いた。枯れるまでの少しの間を楽しむ。 
      「そうでもない。誰にだって、変わりたくなるときがあるさ」 
       グラスの縁に、自分のグラスを当てた。かちん、と小気味よい音が鳴る。 
       |