彼と私の情緒 秋


 見晴らしはそんなに良くない。風は肌に心地良い。今日の天気は晴れ。花壇に咲き乱れるコスモスが揺れている。
「良い天気ねぇ」
 誰にそう云ったわけではない。特に、隣で真面目くさった顔して数枚の紙の上に整理された活字と睨めっこしている早川なんかには絶対云ってない。それがわかっているのか、それとも単なる無視か……多分どっちもだ。早川は見向きもしない。完全に私という存在がシャットアウトされている。
「こんな良い天気に恵まれて、幸せだねぇ」
 日中はまだまだ夏の暑さが残ってはいるが、夕方ともなれば涼しくなって過ごしやすい。夜になっていくにつれて肌寒くはなるが、まだ明るいうちなら半袖でも充分だ。私がこんなにも気候に夢中になっているのは、早川が話し相手になってくれるまでのつなぎなんだけど、多分こいつはわかってない。
「あー、本当良い天気だこと」
「笹部、お前はさっきから何を一人で喋っているんだ?」
「独り言」
 漸く気にし始めたか。でも今日はいつもより少し反応が早いじゃないか。
 さっきまで恋人のように……っていうか、もう私は、早川の仕事をこいつの恋人と呼ぶことに決めた。今決めた。そう呼んだって全く問題ない。というわけで、さっきまで見つめ合っていた恋人から目を離して私を見た。二人の仲を邪魔されて怒っているようにも見えたが、何と云うことはない。やはりいつもの無表情な早川の顔についた、素っ気ない目であった。っていうか、本来、怒って良いのは私でしょ?
「あんたこそ、ここに何しに来たわけ? 仕事?」
「何をしにここへ連れて来られたのかわからないから仕事をしている」

 さっきから云っている《ここ》というのは、早川の住むマンションの近所に位置する小さな公園である。高台にあるとかいう特殊条件があるわけでもなく、周辺は平凡な住宅地なので、家が立ち並んでいるのが見えるだけの愛想のなさだ。早川みたい。大きな八重桜の木が、見晴らしの悪さを補わんとするかのように植えられているが、それも春限定だ。今あっても意味がない。花壇のコスモスもどこか中途半端で、花自体に可愛げがなければ景観は悪いといって良い。まぁ公園に景色を求めてくる人も少ないだろうけど。
 それにしても。
 何しに来たのかわからないならそう云えよ。即行、仕事するか、普通。まぁこの男にとってはそれが普通なのだろうけど。
 早川は仕事だけの男、と思われている。職場にいる間はずっとデスクに向かっているらしく、彼と同じ職場の連中は全員、仕事をしている早川の姿しか見たことがないという。勤め先の会社が違うので全部聞いた話なのだが、まぁ容易に想像はつく。必要以上の他人との接触は避けるから、ほのぼのとした日常的な談話は一切しない。休憩のような間もとっているのか疑問だとかで、早川の食事シーンすら見た者は少ないとか、全くいないとか……霞でも食って生きてんのかな?
 この《仕事だけの男》という言い方は、早川の有能さを示唆している。遊ぶということを知らないみたいに、ただ仕事をこなす。彼のやり方に無駄はなく、全てがスムーズに運んでいく……んだって。知らないけど。聞いただけ。
 だけどそんな早川のことを、社会は受け入れても、人は遠慮する。《仕事だけの男》。それは彼の有能さを示すと共に、彼を揶揄していた。
 私は早川を《仕事だけの男》だと思えたことはない……かな、多分。そりゃ最初の頃はお堅いサラリーマンだと思ってたけどさ。うちが取引先の会社で、向こうの上司と何回目かの出入りの時にお茶を出してやったのが初対面なんだけど。あの時は「ありがとう」って云った気がするな、こいつ。最近は滅多に聞かないけど。あ、礼を云われるようなことをしてないからか。
 早川と喋るようになってから、っていう言い方も変か。喋らないもんな、この男は。まぁオフの日でも会ったりするようになってから知ったのは、本当に面白いヤツということだ。性格は第一印象と同じ、とんでもなく真面目で律儀。冗談も云わない。私は大体その逆をいく性格をしているから、早川にしょうもないちょっかいをかけるのが好きだ。本当に愛想はないし、無視することも多いけど、でも聞いてはいるみたいで、どんな下らない質問でも真剣に返してくる。逐一とまでは云わないけど。それが楽しくてたまらなくて、大変楽しんでいる。

 今日も今日とて、そのつもりだ。

「何しにって、お月見」
 秋といえば、それしかない。私は正直に答えた。正直でなかったのは、一日中デスクに向かっているのも体に悪いと思って、という誘い文句にするには実に都合の良い連れ出し方をしたときくらいだ。それで説得するのに一週間かかったけど。
「云わなかったっけ?」
 早川は私から目をそらさなかったが、意識的に私を捉えているわけではないようだ。しつこい私の勧誘を思い起こしているのだろう。
「聞いていない」
「あ、そう? ごめん」
 そうかぁ。云ってなかったかぁ。じゃあ私は、この大仏並みにどっかりと腰を据えて動かない超絶出不精を、何て云って連れて来たんだろう。
「『どっか行かない?』ということしか聞いてない」
 何だこいつ、人の考えが読めるのか?
 まぁこれで私がどの程度の情報しか与えていなかったかがわかった。つまり、全然何も云ってない。
 どれどれ、私も思い出してみよう。
 私が早川を誘うときに利用したのは電話だ。こっちの仕事上がりに携帯電話にかけて、出なかったらリダイヤルを待つ。着信残したら絶対折り返しかけてくるからね。たいしたもんだわ。
 何度も断られたけど、やっと承諾させた。で、その《どっか》が早川の家の近所の公園になったのは何故だっけ?
 確か、えっと……。
「何でここなの?」
「自分で指定しておいて何を云っている。少し落ち着け」
 ん? 私が指定したのか?
「あ、早川が遠くに行きたくない、って云ったからか」
 そうだそうだ、そうだった。
 早川は仕事を家に持ち帰るから、オフの日でも仕事をするんだ。私と一緒にいても仕事するけど。だから帰りが遅くなるような遠くには行きたくないと云ったのだ。そういえば、最初は車か電車を使わないと行けない場所を指定してあっさりと断られたんだった。それから段々と距離を縮めていった結果、ここになったのだ。「じゃあどこなら良いの?」と聞いたとき、「どこにも行かないのが一番良い」と云われたことも思い出した。

「ここ、あんまり景色が良くないね」
「月は見えるぞ」
「まだ出てないけど?」
「そのうち出てくる」
「そりゃそうでしょう」
「だったら、それで良いだろう」
「風情がないねぇ、早川くん」
 早川はため息をついた。私もつきたいんだけど?
「することがないなら帰るぞ」
 云いながら、早川は恋人を丁寧に鞄にしまい、立ち上がった。
「月見団子を食べる、というのをしてないけど」
「一人でできないのか?」
 そうよねぇ。あんたがいても、一人でいるのとそう大差ないしねぇ。
「だぁから。風情がないよ、早川」
 ついでに云うと、遠慮もないな。

「ねぇ、早川」
「何だ」
「とりあえずお月見は置いといてさ、話でもしようよ」
「何でだ?」
 理由を考えろと? 面倒くさいこと云うなよ。
「そうねぇ……何であんたと話をしたいのかを知る為、とかどう?」
 どうって云ってもね。理由を提案するのなんて初めてだよ。
 早川は、またため息をついた。幸せ逃げるわよ。
「わかるものなのか、そういうのは」
「知らない。やったことないし」
 あんたみたいなタイプは他にいないからね。ってか、そんな人間が私の周りで他にもいてたまるか。
「でもほら、他の人に聞いたってわかんないしさ」
 というより、他の人の話はあてにならないことが多い。早川が会社で仕事しかしてないことくらいは、私にだって想像がつく話だけど、肝心なことっていうか、人間性云々の噂は殆ど想像の域よね。
 早川は呆れたように息をついて、再び腰を下ろした。何だ、こんな理由で良かったのか。
「ははは、変なヤツ」
「お前が云うな」
「あんたよりマシでしょ」
 そういや、早川に変なヤツ呼ばわりされたことあったな。でも、私はまだ普通だ。いや、自分でも変なヤツだとは思うけど、早川よりは絶対普通。
「おや? 珍しく恋人が出てこないのね?」
「恋人?」
「それそれ」
 私は早川の鞄を指した。いつもなら、座ったと同時に出てくるのに。
「お前、まだそれ云ってるのか」
 まだ、っていうのは、以前に私が同じような比喩をしたことを云っている。覚えてたんだ。
「だって、そうにしか見えないんだし、もうそれで良いじゃん」
 それに、早川も以前は「悪くない」みたいなことを云っていた。誰もが公認の仲だって、その睦まじさ。

「さて……何を話そっか?」
 いざとなったら、そういえば話題がない。無駄だろうとわかっていながら、早川に振った。そして、やっぱり無駄に終わった。しかも、出てこないと思っていた《恋人》が彼の手の中にいる。嫁になるのも時間の問題ね。
「仕方ないわねぇ」
 こうなってしまってはもう駄目と、私は最後の手段に出ることにした。
「見よ!」
 と云ったところで、当然のように早川はこちらを見ない。
 私が取り出したのは団子だ。お月見には欠かせませんなぁ。因みにみたらし団子。
「て・づ・く・り、ですよ?」
 無駄にアピールする。そしてこれもやっぱり無駄になる。まぁ、材料こねれば団子になるし、煮立たせたらみたらし餡になるんだから、そんな大仰しいものではないんだけどさ。
 しかし、これだけしてもまだ振り向かないのか、この男は。
「大丈夫よ? 毒なんて入ってないし」
 そんなことしたら、私が食べられないしね。
「よし、じゃあアレしたげようか? アーンってやつ」
 何という出血大サービスだろうね。別にやりたかないけど。何で二十五にもなる男を甘やかさないといけないのか。それで早川が釣れることも決してないし。それどころか、何の反応さえも見せない。どれだけ人の好意を無駄にするんだ。
 もう埒が明かないので、私は一人で食べ始めた。
「うまッ」
 自画自賛だけど、本当にそう感じてしまったのだから仕方がない。

 月を見るにはまだ少し時間がある。でも私は花より団子っていうか、月より団子っていうか。まぁ料理なら、作るのも食べるのも好きなだけ。
 好きなことと云えば、仕事しかしてるところを見ない早川は、好きで仕事なんてしてるのだろうか。だとしたら病気か、人間じゃないわね。
これも話題になるけど、仕事のこと聞くのもなぁ。
 考えながら箸が動くのか、箸を動かしながら考えているのか。
「んー。どんな話をしようかなぁ」


彼と私のシリーズ『彼と私の一年』より