例えばの話


「僕と君とはさして深い仲ではないが、例えば『ここ』がすべてのスタート地点だとすれば、普通の人なら『ここ』までのことなのが、君の場合は『ここ』ぐらいまでだと云って良いだろうと個人的には思っているからして、要するに僕と君は『ここ』から『ここ』までの関係ということなんだが、わかる? いや、わかってないなぁ」

 と、目の前の男は延々と語っているが、それらが何一つとして私に伝わってこないことがおわかりいただけるだろうか。
 この男の中では「スタート地点」やら「ここ」から「ここ」までの距離やらが明確に思い浮かんでいるのだろう。しかしそれは、例えば私がこの男本人にでもならない限りわかりえない事柄である。当たり前のことだ。その証拠に、先ほどから「ここ」「ここ」と云って忙しなく動く男の人差し指が打っているものが、立ち話もなんだからと適当に入った喫茶店のテーブルにしか私には見えない。例えば「ここに山があるとします」などと云われたところで、そこに山はないのだ。

 ちらりと男が注文したホットコーヒーに目をやると、立ち上っていたはずの湯気が消えている。カップの中身がないわけではない。寧ろなみなみとそそがれた状態で湯気が立っていないのだ。

 私はメロンソーダに突っ込んだストローを吸った。例えば男が「ここ」と指す場所にコーヒーカップが置かれていたなら、少しは話を理解できていたかも知れない。実は、男が幾度にわたって「ここ」と示していた場所が、少しずつずれていたのが気になっていた。いや、置かれているものがコーヒーカップでなくても構わない。例えば男が冷たい飲み物をたのんでいて、時間の経ったグラスの表面に冷気の滴が現れ、グラスを伝って落ちた場所と云うのでも良かった。その水滴を利用して、「ここまで」の地点へ導いたならなお良い。といって、この男にそこまでの機転など期待していないが、例えばそこまで機敏な対処ができたならと思わなくもない。

 男の云うことは話半分に聞いていた。これで、例えばほかにすることがあったならば半分も聞いてはいなかっただろう。男は話の合間に「わかる?」といった疑問の形を挟むことがしばしばあったが、それは相手の答えを本気で聞こうとする行為ではない。大抵は自分で解決してしまう。相槌を打つ程度のことをする暇(いとま)すら与えない。マシンガントークとはよく云ったものである。
 たん、たんと断続的にテーブルを打つ音と理解しにくい男の話は、さながら子守歌のようでいて、しかしゆりかごで聞くような心地良さとは無縁なものだ。例えばこの男がもっと思考力のない人間だったならば、こうまで婉曲的な言い回しでもって話なんてしないだろう。考えのないことは危険に違いないが、あることが時として邪魔だということも間違いではない。

 もしもここで男がコーヒーカップに手を伸ばしたならば、私はすかさず「『ここからここ』だなんて云い方しなくても、例えばもっとわかりやすい云い方ってあるんじゃないの?」と云っただろう。だが、男の熱弁ぶりを見る限り、そんな気配はなさそうだ。「ここからここ」じゃなくて――例えば「特別な人」とでも云ってくれたら、私はすぐにだって理解しただろうに……。
 相変わらず男の話には入る隙がないので、私は黙っている。聞くでもなく黙っている時間は苦痛だ。ストローを吸いながら、例えば私がもっとメロンソーダに興味があったならばと、そんなくだらないことさえ考える。


私たちは私たちの幸せのために妄想することが必要なのです。